現在東京国立科学博物館で特別展「ワイン展・ブドウから生まれた奇蹟」が開催されている。この催しはワインと其の原料であるブドウの歴史を検証した物であるが、その展示物の一つに、ワインに含まれるロッシェル塩を育成した単結晶体がある。この結晶体は戦中帝国陸海軍の水中聴音機を構成する捕音器(クリスタル型マイクロフォン)を製造するために人工育成された物であるが、ロッシェル塩の結晶体は水晶やチタン酸バリウム等と同様に誘電特性を持ち、音響機器用の圧電素子として広く使用された。 当館は旧帝国陸海軍の水中音響兵器に係わる資料の収集を進めており、其の一環としてロッシェル塩単結晶体の入手を切望していたが、今日まで実現することはなかった。しかし、科博の特別展に触発され、ロッシェル塩の再調査を進めていたところ、幸いにも、近郊にお住まいのIH殿より、ご自身が育成された小型の単結晶体を当館にご提供頂く事になり、長年の懸案が一つ解決する事になった。このため、これを機にロッシェル塩と帝国海軍の水中聴音機について、その概要を以下に纏めてみた。 なお、IH殿はロッシェル塩単結晶体の育成について、下記URLで公表されている。 http://www.geocities.jp/createradio/rochelle.html水中聴音機とロッシェル塩結晶体 1914年(大正3年)に始まった第一次大戦では、ドイツの小型潜水艦「Uボート」が連合国の商船隊を攻撃し大きな戦果を上げた。このため、各国に於いて潜水艦や水上艦船の探知を目的とした水中音響兵器の開発が進み、水中聴音機もその一つであった。本機は水中捕音器(水中マイク)により敵艦船の探索、方位の測定を行う受動的水中探知機(パッシブソナー)で、同時期に開発された超音波を発信する能動的水中探知機(アクティブソナー)と共に、以後の主要な対潜、対艦兵器となった。 1946年(昭和16年)に太平洋戦争が没発すると、我が国の艦船は連合国潜水艦の激しい跳梁を受け、従来の水中聴音機の改良と併せ、更なる高性能機材の開発が緊急の課題となった。この時期、帝国海軍艦艇は1933年(昭和8年)に導入された93式水中聴音機を装備していたが、本機は必ずしも満足のいく性能ではなく、一方、戦況は緊迫し、次々に建造される小型艦艇や、特設艦、ひいては徴用した商船に至る迄、全ての船舶に水中聴音機を緊急に装備する必要があった。通常一機の聴音機には十数個の補音器を必要とするが、之を全艦船に装備するためには膨大な数の水中型マイクを製造する必要があった。従来の93式水中聴音機には可動線輪型補音器(ダイナミック型マイク)が使用されていたが、必要な量の補音器を本型で賄うには大量のニッケルや銅線が必要で、また、製造は煩雑であり、その供給には問題があった。このため、構造が簡単で量産に適し、高感度なクリスタル型捕音器を装備する水中聴音機の開発が進められたが、振動素子であるロッシェル塩単結晶体の育成には大量の酒石酸(粗酒石)が必要であった。 酒石酸はワインより造られるが、酒類行政を管轄する大蔵省は、陸海軍の要請により1944年(昭和19年)に緊急軍需物資として、その増産を決定した。このため、ワイン醸造自体の増産が必要となり、製造免許の追加や、造石数の増量が容認された。また、統制品であった脱酸用石灰や、葡萄の発酵を促進させる砂糖についても、その供給に特別の便宜が与えられた。ワインとロッシェル塩 ロッシェル塩はフランスのラ・ロッシェル(ロッセル)の薬学者ピーター・セニエットによって合成されたことから、ロッシェル塩またはセニエット塩と呼ばれ、ワインから容易に製造する事が出来る。ブドウには微量の酒石酸カリウムナトリウムが含まれており、このため、ワインを醸造すると、ワイン中に沈殿する滓(おり)や貯蔵する酒ダルの周壁にも、白い小さな酒石酸の結晶であるが粗酒石が付く。また、ワインの液中に脱酸用石灰を適量添加すると、酒石酸石灰として沈殿し採取することができる(脱酒石酸により若干酸味は減少するが、残りはワインとして飲用が可能)。酒石酸石灰に加里ソーダを化合させると、酒石酸加里ソーダという少し大きな結晶が精製され、これがロッシェル塩である。ロッシェル塩の構造はカルボン酸である酒石酸がナトリウムおよびカリウムと塩を形成した複塩で、古くから板ガラスより鏡を製作する際に銀メッキの還元剤として使用され、戦前我が国でも光学関連企業は大量のロッシェル塩をフランスより輸入していた。圧電素子ロッシェル塩結晶体 物質に圧力を加えると、圧力に比例し表面に電荷が現れるが、この現象を圧電気(圧電)現象と云う。1880年(明治13年)、フランスの物理学者ジャック・キュリ−(J.Curie)とピエ−ル・キュリ−(P.Curie)兄弟は電気石、水晶他約30種類の結晶について本現象を発見したが、ロッシェル塩もその一つであった。その後1893年(明治26年)にポケレスト(Pockelst)はロッシェル塩の圧電率が水晶他と比べ異様に大きく、また、温度により著しく変化する事を発見した。1914年(大正3年)に第1次世界大戦が勃発すると、連合国はドイツの小型潜水艦Uボートの跳梁に悩まされ、其の対策が必要であった。1917年(大正6年)、Curie兄弟の弟子であったランジュバン(P.Langevin)は水晶の圧電現象に着目し、これに低周波電力を加圧し超音波を発生させる方式の、対潜水艦用アクティブソナーを発明した。之を契機に圧電素子の研究が進み、1919年(大正8年)にNicholsonはロッシェル塩の単結晶体を培養し、切出した素子を振動体に使用したマイクや受話器の試作を行い、音響機器の入出力装置に於ける圧電素子の可能性を開いた。1930年代になると米国のBrush社がロッシェル塩の単結晶体を使用した音響機器を「クリスタル」製品として販売した。本圧電素子が「クリスタル」と表記されたのは、ロッシェル塩より生成する単結晶体の構造、外見が、水晶に類似していたことによると考えられる。 ロッシェル塩の結晶体は水晶と同様にX軸、Y軸、Z軸の座標を持つ(図3参照)。結晶体を圧電素子として動作させるには、X軸に垂直に切取り、他の2面がY軸、Z軸に平行、あるいは、45°の角度を持たせ切断した0°X板(45°X板)を使用する。ロッシェル塩の結晶体は発振素子として1,000KHz程度の発振を行うことが出来るが、水晶の様に温度係数が零となる方位が存在せず、また潮解、風解する性質のため、安定した発振素子には適していない。第二次大戦中は各国で天然水晶に代わる圧電、誘電材料の研究が進んだが、その中心は人工水晶やチタン酸バリウムの開発であり、この分野でロッシェル塩が考慮されることはなかった。帝国海軍に於けるロッシェル塩の研究 「海軍電気技術史(第7部)」には海軍部内に於けるロッシェル塩の製造と水中補音器の開発に係わる記述があり、参考資料として該当部分を以下に掲示した。 「ロッシェル塩に関しては非常に早く昭和10年頃より海軍技術研究所に於いて研究に着手し、極めて大型の結晶の育成並に之が加工法を修得していた。然し之を捕音器に使用することは耐湿性と耐爆強度の点より躊躇してきた。昭和17年に至り右の欠点の前者は防湿塗料を以て覆い、後者は緩衡装置(特許を申請す)を使用し、共に除去し得たので始めて捕音器としで試作実験を始めた。結晶片は長さ49粍、巾20粍、厚さ3粍のもの1枚を 断型に使用したもので、捕音器振動板直径を非常に小となし得、且感度も良好であつた。然し緩衡装置のある為整合度が悪く又周波数特性も2,000サイクルに共振点を有していた。この捕音器は簡易式聴音機用として技研音響研究部にて量産せられた。 一方独乙より昭和19年初新型捕音器が到着した処、圧縮型ロッシェル塩捕音器であつたので、之を参考として直ちに国産化を試み成功した。大は長さ31粍、巾24粍、厚3粍の結晶片8枚を重ね之を圧縮型に使用し耐爆強度も十分であり,周波数特性も500サイクル乃至5,000サイクルで極めて平坦で理想的のものであつた。20年4月に住友電気にて85個を製造し4式水中聴音機に使用、実験の結果極めて好成績であったので其の後沖電気、東芝の3社に於いて量産を初めた。(大略)」我が国での商業化 1936年(昭和11年)頃、ロッシェル塩と馴染みの深かった日本光学工業はこの分野で事業を起こすべく、圧電材料による音響機器の研究開発を始めた。その中心人物は東京帝国大学理学部を卒業した河合平司で、研究はロッシェル塩単結晶体の安定した育成及び、切出した圧電素子による音響機器の開発であった。しかし、1941年(昭和16年)に日本光学は本事業より撤退し、河合は小林理学研究所(注)に移籍し研究を継続することになった。 大戦が始まり敵潜水艦による被害が深刻化すると陸海軍は水中聴音機の改良、開発に着手し、特に構造が簡単で高感度なクリスタル型補音器を量産する為、良質なロッシェル塩の単結晶体が大量に必要となった。このため、軍の意向を受け、1944年(昭和19年)に小林理学研究所より分離した小林理研製作所(現:リオン株式会社)が設立され、陸海軍向けに単結晶体の育成および加工を進め、併せ補音用水中マイクや受話器、超音波用素子等の開発、製造が行われた。 終戦後、小林理研製作所は軍需用に生産された大量のロッシェル塩単結晶体を使用して民需用のマイク、小型スピーカー、イヤホン、レコード用カートリッジ等の音響クリスタル製品を製造し、以降音響技術に長けた会社として発展した。ロッシェル塩単結晶体の育成 単結晶体の育成は同一の圧電素子である人工水晶の育成方法と類似するが、水晶とは異なり簡易な設備で短期間に行うことが出来る。大戦中に行われた育成は等温度法が一般的で、これは長方形や円形のガラス鉢に滋養物となるロッシェル塩の飽和水溶液を満たし、その中に種となるロッシェル塩の小結晶を配置し、飽和溶液をゆっくり除冷する方法である。除冷による温度降下で滋養液は過飽和状態となり、押し出されたロッシェル塩の分子が種の表面に単一原子層ごとに、原子配列に従って付着し、単結晶体が育成される。このため、単結晶体の培養には、飽和溶液とその温度管理が重要となる。三宅静雄著「ロッシェル塩」(小山出版)によると100gの純水に対するロッシェル塩の飽和溶解度は大凡 0°で40g 、20°で100g 、40°で200g であるが、大戦中の育成では30°前後の飽和溶液を使用し、時間を掛け、0.3°程度毎に除冷を行った。結晶体の育成は非常に早く、当時製造された20cm程の大型単結晶体でも、その育成期間は数日であった。 正しく育成された結晶体は透明で水晶体に類似するが、温度管理が不適切な場合は対流する溶液に温度差が発生し、大きな結晶体を育てる事が困難となり、また、結晶内に気泡や、周囲に小さな結晶体が多数発生して不良品となる。このため、当時は育成に於ける歩留まりはさほど高くなかった。クリスタル製品 ロッシェル塩の結晶体で構成されるクリスタルマイクや受話器等の音響機器は、構造が非常に簡単である。製造は発振用水晶片と同様に、単結晶体よりXカットで切出した振動用素子を0.3mm程度に研磨し、必要な大きさに切出した後、その両面に電極となる金属箔を膠等で接着し、これに接線を接続する。結晶体の圧電効果が大きいため、素子のサイズはスピーカーやマイクの場合は10mm角程度、イヤホンの場合は5mm角弱である。通常素子はより大きな振動(圧電効果)を得るため、2枚の軸を直交させ、裏表に張合わせ使用するが、これはバイモルフと呼ばれる。次に、素子を固定し、片方の素子上面に振動を伝えるアームを貼付け、これを紙、アルミ箔等の振動板に接着させ、容器に収容すると製品として完成する。 ロッシェル塩は温度、湿度に弱く、簡単に潮解、風解する。このため、使用環境条件は温度が50°以下、湿度は30-40%の範囲である。育成した単結晶体は透明で、水晶に類似するが、空気に暴露させておくと、吸湿による潮解で白濁する。また、乾燥による風解で表面が少しずつ粉になり、結晶体は小さくなる。このため、製品化に当たっては結晶体の素子に防熱、防湿処理を施す必要がある。防湿用のコーティングにはアルコールで溶かしたシェラックや、膠が使用されたが、これらは結晶体と電極の接合にも利用された。また、潮解・風解対策の一つとして、通常製品はロッシェル塩振動素子が密閉される構造に設計された。写真補足 組写真@はワイン展に出品されているロッシェル塩の単結晶体で、製造は大戦後期である。潮解、風解を防ぐため結晶体にはコーティングが施されている。AはIH殿が育成したロッシェル塩単結晶体で、撮影も同氏である。Bはロッシェル塩結晶体の軸構成で、同一圧電素子である水晶結晶体と同様にX・Y・Z軸を持つ。Cは館内に設置したロッシェル塩の展示コーナーである。プラケース内がIH殿よりご提供頂いたロッシェル塩の結晶体で、白濁した結晶体は育成失敗作である。本展示の右側は、水晶及び人工水晶の展示コーナーである。 (注) 小林理学研究所は朝鮮でタングステン鉱山を経営していた小林鉱業の二代目社長、小林采男によって設立された。小林采男は「日本が将来大きく発展するためには物理の研究所をつくり、生物物理までを含む広範な基礎研究を進める必要がある」と考え本研究所の設立に至った。1940年(昭和15年)8月、戦前最後の財団法人として文部省から認可され、研究所がスタートしたが、戦後は小林鉱業が解散し研究所運営の資金源を失った。しかし、その後財団法人に対する政府の補助金を獲得し研究所の運営が続けられた。創設以来、本研究所は基礎物理のきわめて広い分野において数々の研究を進め、物理学の発展に多大の寄与を果たしている。